西拉雅(シラヤ)の旅5 八田與一と『烏山頭ダム』

2010-06-14

シラヤの旅の続き。
台湾で、もっとも愛されている日本人、八田與一のこと、その映画『パッテンライ』について、先月のブログで書いた。
http://ameblo.jp/arimayu1227/day-20100525.html
その八田が総指揮をして造った「烏山頭ダム」にやってきた。

MAYUMIの旅びと生活。-100614-1

湖のように静かだ。どこまでも広い水面が続く。小さな島が点在し、緑と深い青のコントラストが美しい。いまは、多くの人がウォーキングやピクニックに訪れる公園にもなっている。
そのダムを見わたすように、八田の銅像が立っていた。足を投げ出し、考え事をしているような姿。ダム工事をしていた当時、このような姿で見守っていたのだろうか。
八田の銅像は、地元の有志によって造られたが、戦後、国民党政権が日本統治時代の痕跡を破壊していったため、長い間、隠され、1981年、やっと元の場所に戻った。
その後ろにあるのが八田與一、外代樹(とよき)夫妻の墓。訪ねる人は、後を絶たない。この日本式のお墓も台湾の人々によって、建てられたものだ。

MAYUMIの旅びと生活。-100614-3MAYUMIの旅びと生活。-100614-4

八田のことについて、もう少し詳しく触れよう。
八田與一は、土が乾き、農作物がほとんど育たなかった嘉南平野に、当時、アジア一と言われた大規模な烏山頭ダムを造った人物だ。このダムと1万6000キロの網の目状の用水路のおかげで、その後、嘉南平野は、台湾随一の穀倉地帯になった。
工事は、1920年から1930年の10年間。途中、50名以上の死者を出す大爆場事故も起きたが、彼は工事を止めることはなかった。この工事が、人々の幸福のために不可欠だと確信していたからだ。当初、半信半疑だった台湾の人々も、工事が完成したときは「神からの恵みの水だ」と喜び合ったという。
八田は工事の完成を見届けて、家族と台北に移った。そして、戦中の1942年、乗っていたフィリピンに向かう船が撃沈されて亡くなった。その亡骸は、偶然、山口の漁船の網にかかり、引き上げられた。
そして、3年後。敗戦を受けて、日本人が台湾を去らなければならなくなったとき、妻の外代樹も、烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追った。
この旅を企画してくれた、台湾政府交通部観光局の鄭さんが、驚くべきことを教えてくれた。
外代樹の死は、夫の死を悲しんでの自殺と思われていたが、最近になって、そうではなかったのではないかと、言われるようになった。
夫妻の出身である石川地方には、「人柱」という伝説があった。その昔、土木工事をするとき、事故や災害が起こらないように、生きた人を捧げていたという。外代樹は、夫の仕事を、最後に自分の身を持って完成させたかったのではないか。
つまり、悲観的な死ではなく、大きな役目を全うするための死。当時、46才。小さな子どもも含む8人の子どもがいる女性が、悲観して自殺するとは考えにくい。
MAYUMIの旅びと生活。-100614-6外代樹が身を投げたという場所にやってきた。
真実はわからない。
ただ、外代樹が、夫の八田を尊敬し、愛していたことは、真実……。
この場所に立つと、その愛の大きさに、心が震え、熱いものがこみあげてくるのだ。
MAYUMIの旅びと生活。-100614-2
八田が台湾の人々に愛されている理由は、その人柄にある。どんな小さな諍いもいさめ、ここでは台湾人、日本人もないと、平等に接した。
工事でなくなった人の慰霊碑には、台湾人の名前も、日本人の名前も混ざって、平等に書かれている。
また、日本から来た技術者だけでなく、その家族も暮らせる住居をつくった。仕事をするためには家族の協力が必要だと考えたからだ。
そこは多くの人が暮らす村となり、学校やスポーツ施設ができ、お祭りや映画観賞会も開かれたという。
現在、その八田の家と、技術者、職員たちの宿舎を復元、整備して当時の関係文物や資料を展示する「八田與一記念公園」が、造られようとしている。
来年2011年6月8日、八田の命日がオープン予定。
八田與一と外代樹、そして、当時の台湾と日本の人々のことを知る貴重な場所になるはずだ。


Copyright© 2017 有川真由美オフィシャルサイト All Rights Reserved. L

お仕事のご依頼や質問などは、こちらからお願いします。
担当者よりご連絡いたします。⇒Mail